”いただきます” は、「いのち」を”いただきます” ということ
京都へ旅に行くと、お寺を訪れる機会が多くなるのですが、京都のお寺さんでは、法話を聞くことができたり、それを印刷したものを「ご自由にどうぞ」という形でいただくことができたりします。
今回もいくつかのお寺さんで、そういった小冊子などをいただいたのですが、その中で印象に残ったお話がありました。偶然なのか必然なのか、3ヵ寺で同じ内容のお話でした。
下の法語印は佛光寺でいただいたものです。
「響流」は「こうる」と読みます。
「仏説無量寿経」の言葉だそうです。
この法語印と一緒にいただいた解説に書かれていたことば
響き流れてくるのは
「自らの背景に出逢ってください」
という仏様のよび声
私たちが「生きる」には、他のいのちのはたらきがあるからなのだ、と。
だから、「いただきます」は「いのちをいただきます」ということなのだ、と。
*佛光寺の法語印は3か月ごとに変わります。3月初旬からは新しい法語印がいただけるようで、こちらは現在授与されていません。
上の写真の「群光」は東寺でいただいた冊子です。
小学生に向けた講演が書かれているのですが、題名が「いただきます」でした。
”生き続けるためには、食べなくてはならない。
ご飯・肉・魚・野菜などの「いのち」をいただいて私たちは生きることができる。
食物連鎖があるけれど、人間だけが自分の命を次に与えることはしない。
では、どうしらたいいか。
いただいた「いのち」に感謝すること。生きているもの全てに思いやりを持つこと。”
というようなことが書かれていました。
そして・・・
上の写真の「西国第十一番 醍醐山 上醍醐・准胝堂」と書かれたもの。
西国三十三所観音霊場で納経の時にいただけるものです。
(札所1カ所につき1枚、全ていただき表紙をつけると1冊の法話集ができるようです。)
この中に「観音風光」という項があり、そこに次のように書かれていました。
「心の返し場所」
私たちは、意識するとしないにかかわら
ず、多くの人の心をいただき、生きとし生
けるものの「いのち」をいただいて、生活
しています。受けた心、受けた「いのち」
のお返し場所を探しながら生活するのが人
の道である、とお観音様は私たちに優しく
ご自身の行動で示されておられます。
私たちはいただいた「いのち」にお返しをしなくてはいけません。それが、全てに対する思いやり、感謝なのです。
このことを教えていただいてから、普段の食事に対する考えが変わりました。
嫌いなものも残さずいただかなくては、と思うようになりました。
私が生きるために「いのち」をくださったのだから。
(でも、どうしても食べられないものもありますが・・・)